やまのこ保育園

惑星のようす

"オープンデイ特集[2] 問いを追いかけて見て。あれはなんだったろう?-生と死のリアリティ"

2019.11.01
オープンデイ特集[2] 問いを追いかけて見て。あれはなんだったろう?-生と死のリアリティ

オープンデイ特集[1]でご紹介したやまのこオープンデイと同時開催された企画展「アクション・リサーチ 変容する私たち展」。オープンデイ特集[2]以降は「問いを追いかけてみて。あれはなんだったろう?」と題し、子どもたちとの日常から起きてきた「問い」を 3 ヶ月にわたって追いかけ、記録にまとめるという経験を通して、私たちに起きたことを個々の視点で展示ごとにふりかえります。


Text : Ayumi Ono

子どもたちが大事そうにして、握り締められるカエルやバッタを見るたびに、私は思わず「かわいそう」という言葉を何度も口にしてしまいました。子どもたちが「生と死」をどう捉えているのかを観察しようとしていたのにも関わらず、つい、介入しすぎてしまうのです。
私の「かわいそう」と思う気持ちはどこから来るのか、他の保育者と話すことで自分自身が他者より、「死」や「喪失」することに、どうやら強く反応してしまう傾向があることと同時に、他のメンバーは生き物の命を奪うという経験を幼少期に経験し、リアルに覚えているということがわかりました。記憶を辿っていくと「かわいそう」という気持ちはもしかしたら幼い頃に大人から与えられたものなのかもしれないと考えると妙に納得し、私は自らの体験を通して生命観を獲得しないまま、大人になってしまったのかもしれないと感じるようになりました。
子どもたちには「死んでいるけど生きている」という状態があり得たり、
動かない状態(大きくならない状態)だと生きていないと捉えていたり。私の生命観が不確かなものだと気がつくと、今度は子どもとの差異を見つける度に、より深く、子どもたちがどう捉えているのか、尋ねたくなりました。
子どもたちの生命観は揺らぎ、日々形を自在に変えていっています。彼らはまだ、それが形作られる途上にいて、自分自身で生命観を獲得するために、まっすぐに生きものと向き合っている。そう思えると「かわいそう」という言葉が口から出てくることは少なくなっていきました。
この一連の振り返りの話し合いの中で、大人が知りたいがために、子どものまだ不確かな生命観を聞きすぎているのではないか?という問いも新たに生まれ、大人の態度についても考えさせられることとなりました。子どもは変容している、そして私たちも変容しつづけられる存在であるように、探求はずっと続いてくのだと強く感じています。

 

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