やまのこ保育園

惑星のようす

"保育者は何を考えていたのか やまのこ商店街までの道のり"

2021.05.01
保育者は何を考えていたのか やまのこ商店街までの道のり

Text : Takuto Kashiwagi

やまのこ商店街のアイデアは、子どもたちにとっても、私たち保育者にとっても初めての試みでした。本記事では、私が一つひとつの初めてに、考えたこと、動いたことを描写しながら、やまのこ商店街という取り組みを通して見えてきた、保育という仕事のエッセンスについて考えてみたいと思います。

きっかけ
卒園式でやることは、保育者の間で何度か話し合われていたものの、なかなか本決定に至らない状況が続いていました。山登りなど、身体的なチャレンジと達成感を味わえるアイデアは出ていましたが、季節的な問題もあり、本決定には至っていなかったのです。
そこで、保育者が内容を決めるのでなく、いま子どもたちがどのような姿を見せているかに視点を移すことにしました。すると、「なんで中で遊びたいのに外に行かなきゃいけないんだ」「なんで大人だけおやつ食べているんだ」など、自分の行動を自分で決められないことにフラストレーションを感じている姿が浮かび上がってきました。また、その際にいつも挙がってくるのが「お金」というキーワードでした。「映画観たいけど自分のお金がない」「おやつ食べたいけどお金がない」と、自分自身の「やりたい!」に乗り切れない子どもたちの姿を見ていると、この人たちが「お金」に関心をもつ入り口に立っていることは明らかにわかりました。

一方で、保育者の中では、お金を介したコミュニケーションが、保育園での日常のコミュニケーションにどのような影響を与えるのか懸念する声もありました。「〇〇してくれたら××してあげる」のような報酬的なコミュニケーションを産むきっかけにならないか、と懸念したのです。

その懸念を解消する意見がその場で生まれることはありませんでしたが、保育者の中には「お金ってなんだろう」という問いが立ちました。お金はコミュニケーションツールであることを前提に置いたとしても、大人にとってのお金の意義と子どもにとってのお金の意義は違うかもしれないし、個人によってもお金の意義が違うかもしれない。私たち保育者も答えは持っていないけれど、お金ということにアンテナが立ち、社会の入り口に立っているように見える彼ら彼女らと、お金をテーマにした探求を共に歩み始めることを決めました。

「自分たちのお店やりたい!」が生まれて
3月1日、年長児8人にたいして「やまのこ最後の日何やりたい?」と問うと、Hくんが「年長だけでこそこそおやつ食べたい」と答えました。「どうやって買うの?」と尋ねると、「わたしお金持ってる!」と数人が声をあげました。しかしSくんが「貯めてるお金使うのもったいない。自分たちのお店やる!」と声をあげたのです。そのアイデアに興奮したように意見を発するKIちゃんとHくん。KAちゃん、Yちゃん、Aちゃん、Jくんは、その言葉が意味することをじっくり吟味するように俯いていました。

お店をやるアイデアが出てきてから、私はお店ごっこ遊びを意識的に増やしていきました。その中で、それぞれの人が何に興味を持っているのか、みんなで一つの店をするのかそれぞれが別のお店をするのか、感じ取っていきたいと思っていたからです。

まず、SORAI前のベンチでお店ごっこをやりました。「野菜屋さんでーす。にんじん一本100万円でーす!」「何でも屋さんでーす。おもちゃもありますよ」と客引きの声が威勢よく響きます。もちろん、商品もお金もないので、お店の人の手もお客の人の手も空っぽです。全てはお店役とお客役がイメージをやりとりする中で進んでいきます。
別の日、くねくね山でお店ごっこをやりました。枝や松の葉が豊富に落ちている状況で、枝を野菜や武器に見立てたお店が始まります。しばらくすると、「映画館です」と言って、座らせた客の前に立つ人も出てきました。その後も、ゲーム屋や願い事かなえ屋など、商品でなく体験を提供する店が続々と生まれてきます。素材が豊富ではありませんが、広々とした土地があるくねくね山でやったからこそ、体験を提供する店が生まれやすかったのだと思います。

さらに後日、私はお金の絵を印刷して、年長児に手渡しました。お金が目に見えやすくなったことによって、「1個10円でーす」と具体的な金額が決まり、「こんなにお金もらった」と自分の成果が実感できる楽しみが付加されました。さらに、「実際のお店を見てみよう!」とみんなでコピアを訪れることで、「本当にお店をやるんだ」という気持ちを強めることも狙っていきました。

ごっこ遊びを重ね「これをやってみたい」とそれぞれが思いをはせる時間が蓄積された段階で、これが年長8人のプロジェクトであり、何を作るかは自分たち次第であると実感するにはどうしたらいいだろう、と考え始めました。
そこで、年少児と年中児もいる朝の集いで、年長がお店を計画していることを公言しました。年少児や年中児という他者的な存在がいることで、このプロジェクトのきっかけを作ったのは他ならぬ自分たち年長児である、ということを印象付けれると思ったからです。

これによって、年長児の表情が変化したことを見とった私は、年長児だけに話し合いの時間を託しました。年長児たちは、自発的に話し合いをはじめ、誰が何をやりたいかメモを取る人が現れました。また、どこにどのお店があるか地図を描く人も現れました。
その後SORAIに行くと、休むことなく手を動かし続ける姿がありました。くねくね山とは反対に、素材が豊富なSORAIで過ごした時間によって、具体的な商品を作って売る、という路線が確定したように思います。
一方で、保育者の中では3月30日に間に合うだろうか、という懸念が生じていました。年長児とはいっても、2週間後のことをイメージして、そこに向けて現在の行動を調整していくことは、とても難しいのです。商店街のことは楽しみにしつつも、その場その場で生じる遊びに動いて、商店街への準備はなかなか進みませんでした。

しかし、そこで大人があれこれと口を出してしまっては本末転倒です。なるべく、本人たちが納得感を持って自分たちの行動を決めていくことができるように、カレンダーを掲示したり、本番の地図を描いたりする機会を持ちました。また、こごみ組の子どもたちと保育者がお客さんになってもらう「練習の日」を作ることで、より本番のイメージがつきやすいようにしました。
その過程で私は、子どもたちが商店街のイメージを描くことができる環境を準備している感覚がありました。自分で描いたイメージを実現するためには何をつくればいいのか、子どもたちが自分で判断できる状況を作ろうと努力していたのだと思います。子どもたちが初めての経験に対して見通しが立たないのは当然で、ある程度の先導も大事ですが、その中でも、子どもたちが自分の行動を自分で決定できることに重点を置いていたのだと思います。

同時に、一人ひとりに寄り添う目線で年少児や年中児のそばにいれなかったことが私はとても悔しく感じます。年長児の一人ひとりの心の動きは手にとるようにわかっても、年少児や年中児の「やりたい!」と並走するには力が足りませんでした。
商店街に参加したい気持ちを持つ人々の名前が連ねられたエントリーシート。書いてある名前にも、書いてない名前にも、寄り添うことができたらどんな世界を見ることができたのだろう、と想像します。

保育という仕事をしていると、その人が「やりたい!」と思った瞬間に立ち会うことができる魅力があります。しかし、「やりたい!」には困難が付きものです。「できないけどやりたい」と思いを抱える人のそばに、自分はどのようにして在ることができるか。大人が主導権を握ったり、方法を教え込むのでなく、その人自身が適切な手段を選択することができる力をどのように育むことができるか。
やり方はいくつもあるのだと思います。その中のひとつが、目に見えないものを目に見えやすくすること。その人に見えている世界を正確に掴んだ上で、その外側の世界にあるものをその人の世界に引き込む工夫をすること。それが起きた時、その人は驚き、学び、視点を獲得していくのではないかと思うのです。

「お金」への感度をきっかけとしながらも、やまのこ商店街の最大の意義は、まだ見たことのない自分たちの「やりたい!」に向かっていく経験にあったのだと、今では思います。その過程で得た経験を肥やしにしながら、私たち保育者も、より豊かな世界を作り出す力を身につけていきたいと思うのです。

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