やまのこ保育園

惑星のようす

"生き物との関わり

2022.07.28
生き物との関わり – 保護者と保育者のまなざしの共有

Text : Asako Sugano


1. はじめに -「おしゃべりナイト~生き物編」企画のきっかけ

やまのこ保育園の子どもたちは、園庭を始め森や海などさまざまなフィールドで生きものたちと出会います。生きものとの触れ合いがより豊かになってきた7月、保護者の方からのある問いかけをきっかけに、「おしゃべりナイト生き物編」という座談会を企画しました。ご本人からの許可をいただいて問いかけの内容を共有します。

お迎えに行った際、死んでしまったザリガニ2匹が下駄箱の上に置かれていました。以前にも、虫が同じような状態でしはらく置かれている事があり、その時もお話させていただいたと思うのですが…もう少し子供たちが『命』について、自分と同じように生きている事を少しずつでいいので、考えていって欲しいです。死んで放置されている姿を見ると、悲しくなります。」

子どもたちにとって身近な虫やカエル、ザリガニなどの生きものとの日々触れ合いは生と死との出会いの連続です。子どもたちの姿を見ていると、彼らは今まさに自分の価値観のもととなる原体験の最中にいるのだと強く感じます。そばにいる大人はどのような姿勢でいるべきか悩みます。その悩みを保護者、保育者ともに共有し、答えがない中でも互いの視点を差し出し合うことで学び深い時間となりました。ご参加いただいた方々に改めて感謝を伝えるとともに、その後の子どもたちの成⻑、保育者の葛藤、反省など、冬を迎えるこのタイミングで振り返り、改めて議論のきっかけにできたらと思っています。

 

2. やまのこおしゃべりナイト~生き物編~書き起こし(一部省略/編集)

開催日時:2022年7月1日(金) 19:00-20:00

場所:やまのこ保育園&オンラインzoomハイブリット

参加者:やまのこ保育園・やまのこ保育園homeの保護者(6名)および保育者(3名)

(〜導入/挨拶省略〜)

 

2-1. 今保育園でくらしている生き物たちの紹介

司会 ちひろ:まず最近のやまのこの生き物事情についてお話しし、その後、今悩んでいることや迷っていることを子どもたちの関わりのエピソードなどを交えてお話します。最後に保護者の皆さんからも質問やご意見をいただけたらと思います。

保育者 あさこ:やまのこに今いる生き物をご紹介します。こちらがザリガニ水槽で、ザリガニが12匹います。大きさは50cm×40cmほどのケースです。少し前まではもう少し小さいケースで飼っていましたが、ザリガニは2匹以上一緒にすると共食いする性質があるので、できるだけ広いところで飼おうとしています。ただ、この数にはこれでも十分ではない広さで、日々喧嘩が勃発していて、「これは大きいから食べちゃいそうだね」と、子どもたちはザリガニがハサミをぶつけ合うのをみて喧嘩を仲裁したり、観察したりしています。
一緒に入っているメダカや、石についても、「メダカ、食べられちゃうかなあ?でもブクブク(酸素ポンプ)が一緒にある所にいた方がいいから一緒に入れておく?」「ザリガニが隠れられる石があった方がいいかな?」など、子どもたちと相談し悩みながら、ザリガニ水槽を作っています。

子どもたちの熱が今一番高いのはザリガニで、次がカエルです。シュレーゲルアオガエルという少し大きめのカエルが1匹います。ちょうど昨日の森の日で捕まえてきました。
飼育環境については、カエルだったら腐葉土・葉っぱ・木の枝・水場があるような環境、ザリガニだったら石や水草があるような、できるだけカエルやザリガニが元々暮らしていた環境に近い飼育環境を心がけて、子どもたちと話しながら作っています。

また、ありのままを紹介するという点で、もう一つ、これがヤゴの水槽なんですが、なんとヤゴにカビが生えています…大人の手が回っていなかったり、子どもの興味がザリガニに行ってお世話を怠ったために、ヤゴにカビが生えてしまう状況が起きました。これを片付けようか、掃除しようかと思う気持ちもありつつ、子どもの中には「あ、カビが生えててモフモフしてる!」と、この様子を観察している様子も見られます。

 

2-2. 保育者同士で話し合っていること

ちひろ:今、生き物と子どもたちの間に起こっていることを、大人はどういうふうに見て、関わって、どんなことに悩んでいるか、聞かせてもらえますか?

あさこ:毎日スタッフ同士で話をしていて、生き物との関わりについてこういうルールにしよう、とか、子どもにこういう声がけをしよう、といったルール作りをする話にはなっていません。一律の基準をつくるより、それぞれの大人が、”生き物が生きている/死んでいる”ということに関して異なる価値観・倫理観を持っているので、それを日々大人同士が共有し、この人はこう考えているんだ、と知り合いながら、今の子どもたちにどんな風に伝えたらいいだろう?、何を大事にしていったらいいだろう?、と日々話し合い、この大人同士のやりとりを、子どもの生き物との関わりにつなげていく形で進んでいます。

私たちが日々感じて、行き着くキーワードは”正解がない”ということ。例えば、ある人はせっかく森から連れて来たカエルがすぐに死んでしまって、それはあまりにもかわいそう、あまりにも生命を軽く扱っているのではないかと考え、それを子どもたちに伝えますし、ある人は、子どもがカエルをびよんびよん伸ばして、わあ楽しい!と振り回しても、それが今のこの子の遊び方なんだと思って、何も言わない大人もいる。本当に人それぞれなんですよね、大人の関わり方が。

それを、この人はどうしてそう思ってそうしたんだろう?と、大人同士がまず話し合う必要があるなと。大人が、生き物との関わりで自分が何を大切にしているかをまず自分が知って、それを大人同士で共有して深めるというフェーズに今はいるのかなと感じます。

 

2-3. 人生で生き物と関わった経験、今持っている価値観について

ちひろ:自分の生き物に対する価値観は、人生の中でどうやって形成されたと思いますか?バックグラウンドなども交えつつ話してもらえたらと思います。

保育者 つきみ:私は幼い時から動物が好きで、一緒に暮らしたいと思いながらも、同居家族があまり動物好きでなかったので動物と触れ合えない状態で過ごしてきました。独立した今は犬と猫と一緒に暮らしています。もともと好きで飼いたかった動物ですが、日々いろいろと大変だと思うこともあり、生命を毎日お世話して守っていくということや、どんな環境がこの動物たちにとって心地よいかを考えながら一緒に暮らしています。

幼い頃、親に虫を殺すなとか、かわいそうに扱ってはいけないなどと言われた記憶はあまりないですが、印象に残っているのは、ミミズを結んでみたらどうなるかに興味を持って、どうなるかやってみて観察し、1回結んだらすぐ解けて、2回結んだらちょっと時間がかかって解けて、3回結んだら切れた、という経験を母に報告した時、母が「そうなんだ」と特になんともないような感じで受け止めていたことを、なぜかよく覚えています。

私が初めて生き物の死と出会ったのは小学2年の頃、ハムスターの死がきっかけでした。私が飼いたくて飼っていたものの、遊ぶ時しかお世話をせず、餌やりやトイレ掃除、日々の健康チェックなどを全くしなくて、寿命が短い生き物なので亡くなって大泣きした時、母に「あんたに泣く資格はないよ、お世話しなかったんだから」と言われ、そうだなー、と。生命のお世話やケアが本当に必要だということが、そのとき初めて腑に落ちた瞬間だったと思います。その後、生き物と関わることが増え、前職は馬の仕事で七頭ほどの馬と一緒に暮らして、爪のお手入れや、毛がむしれているとか、虫がいるとか、そういう日々のチェックやケアをしたり、ご飯の食べ具合やうんちの具合を見る仕事をしていました。

あさこ:私は今までの人生でペットを飼った経験もなく、自然も庄内に比べたらそれほど豊かではない、生き物があまり身近にない都心で育ちました。子どもの頃の遊びでも、土と戯れて虫やカエルに触るなどという経験が全然ないまま大人になりました。でも、前職で海の生き物と子どもたちが触れ合う環境作りの仕事をしていて、そこで初めて生き物と日々関わる経験をして「このカニとこのカニは色も形もそっくりだけど全然違うカニなんだ!なんで?」とか、「この魚は泳がないで地面を這ってる!面白い!」とか、大人になって生き物と関わる楽しさを知ったんです。なのでやまのこの子どもたちを見て、自然の中にこれだけ色々な生き物がいて、大人になってからでもこんなに楽しいのに、子どもの頃からこれだけ生き物と存分に関わったらどんなに楽しいのだろう!羨ましい!私も子どもの頃からこんな豊かな生き物との関わりをしたかった!という気持ちで関わっています。前職が水族館/博物館のような場所で、子どもと生き物を観察するワークショップを多く行っていたこともあり、つきみさんのようにお世話やケアをしていく中での学びより、子どもたちが観察する/よく見るという中で学ぶことに興味があり、そういう経験を踏まえて今の子どもたちとの関わりでも意見をしています。


2-4. 子どもたちの変化、保育者が悩んできたこと

ちひろ:最近の子どもたちの様子や生き物との関わりやコミュニケーション方法はとても多種多様だと思いますが、5月・6月・今というタイムラインの中でどんな変化があったかや、悩んできたことなど話してもらえたら。

あさこ:暖かくなり生き物との関わりがぐんと増えたのは、ここ一か月ぐらいなんですが、この一か月の間でも子どもたちの生き物との接し方や反応は変化に富んでいます。

少し前までは小さなアマガエルを10〜20匹も連れて帰って来る日があり、その数十匹のアマガエルと一緒に暮らしていました。カエルって触り心地がとても魅力的で、最初5月の初めは、子どもたちは基本的に捕まえたカエルをずっと握って、寝る時も食べるときもずっと握っていたい!という感じや、ビヨンビヨン伸ばしてその体を知りたいという気持ち、自分のものにしたい、俺が捕まえたカエル!とずっと握っている姿が印象的でした。でも最近、保育者がカエルの家を作ろうね、とケースを整え始めた頃から、ずっと握るというよりも、「ちょっとお家に返そうかなー」と言う姿が見られたり、ずっと触ってただ感触を楽しむだけではなく、ケースに入れてカエルはどこに隠れるか?とか、今ダンゴムシ食べた!とか、カエルを”見て知る”ということにも興味を持つようになったという変化が見られます。
前は握っているだけだったのが、カエルにとって心地良い場所を自分たちで作りたいと、カエルの家作りでは「カエルさんが登れる木を入れてみよう!」「暑いかもしれないからお水も入れておこう!」などアイデアをたくさん出して、子ども自身で作るようになっています。

このような子どもの姿について、この1ヶ月で生き物を尊重できるようになってきた!と喜びたい気持ちもありますが、やはりそんな簡単なことでもないのも現実です。例えば、ザリガニを取り出して、園庭で見つけた筒状の竹にホースで水を流してウォータースライダーを作り、「ザリガニウォータースライダー!わあ滑った!速い!速い!」とザリガニをまるでおもちゃのように遊ぶ姿も見られ、そこにザリガニはこうやったら死んじゃうかな、可哀想かな、という気持ちは全く見えなかったりします。
ザリガニが滑る様子を無邪気に楽しむ子どもの姿に、「ザリガニさん、ごめん」と多くの大人は思うのですが、遊んでいる子どもがふと「わあ、まだ壊れない」って言ったりするんですよね。ザリガニが”死ぬ”とか”生きる”じゃなくて、”壊れない”という表現から、きっとこの子はザリガニの殻の強さや、どれだけ水槽に入ってない状態で滑らせたら動かなくなるかということを、体感として得ているんだなと気付かされます。

少し経つと子どもたちの遊びも変化して、ウォータースライダーがシフト制になることもありました。「これはちょっと弱っているから休ませよう!」と、もう少し元気なザリガニを滑らせたりしているんです。沢山おもちゃのように遊んで関わって、その繰り返しが、”もうちょっと元気なやつを選ぼう”とか”この子はなんかちょっと弱ってきたな”という加減を感じる練習になっていて、それはすごく生きた学びだな、本物の生きている生き物でしかできない体験だなと思うので、「ザリガニ可哀想だからやめなよ」ということを私はできるだけ言わずに見守って、観察し、記録するということをしています。

つきみ:私は逆に、ザリガニの生態というものがあると思っているので、おもちゃとは違う、人間とはまた別の生き物であるという認識が強くあります。おもちゃのようにザリガニが扱われてるのを見ると私自身が悲しい気持ちになるので、こうなったらどうだろうね?と声がけして、子どもと一緒に考えています。
例えば、ザリガニを捕まえてきた子に、「今この水槽にザリガニいっぱいいるけどどうする?」と、その飼い方を一緒に調べて、「共食いすることもあるみたいよ、一緒に入れていいかな?」と問いかけて、子どもと相談しながらその場を作ることにしています。
子どもたちはいろんな話をよく聞いています。以前「30cmの水槽だと狭すぎるね、2匹でも共食いしちゃうって書いてあるから、この水槽だとこれは共食いしちゃうかもしれない」という話を一回したことがあったのですが、そうしたら次捕まえてきた時に「この水槽じゃ小さすぎるよ、60cmの水槽じゃないと2匹は飼えないよ」と言うんですよね。
こないだ「どういう環境で飼ったらザリガニは幸せだと思う?」と子どもに聞いたら、その子はすごく悩んで「んーー、森みたいな?」と。それで今度は「やまのこに森みたいな所があったら、あのザリガニは幸せに暮らせるんじゃないか」という話になって。それをすぐ用意できればザリガニも幸せだろうと思うのですが、そこが試行錯誤だと感じますし、どこまで子どもと話して一緒に飼育環境を創っていけるのかというところに、私は興味があります。

 

2-5. 生き物が死んでしまった時、子どもたちとどう関わるか?

ちひろ:これまでの話は、子どもが生き物と関わる中でその生き物が結果的に死んでしまったり、弱ってしまったりすることがあるという前提で話されているように聞こえますが、一般的なというのか、大人の世界の考え方では、生命は大事、生命を粗末にするのはちょっと…、という想いが働くことが多いと感じます。結果的に生き物が死んでしまった時、どんな心の動きがありますか?子どもたちにどんな働きかけをしていますか?

つきみ:とても難しい話だなと。ザリガニのエピソードですが、脱皮に失敗したザリガニが、他の個体に食べられてしまったことがありました。殻がとても柔らかく、他のザリガニからしたら食べやすい状態で、食べられて死んでしまいました。その時、4-5歳の子どもたちの、亡くなったザリガニへの触れ方がものすごく優しくて。恐る恐る触ったり、そっと置いて観察したりする様子がありました。一方、2-3歳の子どもは、ザリガニが死んでいることに興味をもってすごい触ってザリガニの感触自体を味わっている姿があり、見ている大人としては「ぐちゃぐちゃになっちゃう…」と感じましたが、その子はザリガニの体の柔らかさや感触、中からこんなものが出てきたぞ、ということに強い興味を持っていて、今これを止めてしまうことに躊躇する気持ちが生まれました。自分の「ぐちゃぐちゃになっちゃう…」という気持ちと、その子の「どういうものが入ってるのかな?」と今出会っている亡くなった個体のザリガニへの探求心や興味の間で、子どもがそういうものを見つける瞬間を、私の一言で奪いたくないという気持ちが生まれ、こういう時にすごく葛藤します。どう声をかけるか、かけないか、どう見守るかをとても悩むポイントで、心が動きます。
あさこ:生き物が死んで可哀想だと思う気持ちって、実はすごく難しいし、すごく高度な気持ちだと思うんです。意図せず子どもが生き物を殺してしまった時に、ああ死んじゃってかわいそう、一つの生命が失われてしまったな、というこの気持ちって、果たして、言葉で伝えられるものなんだろうか?と、悩みます。死んじゃったとか、動かなくなったということに対する私の反応としては、割と淡々と「標本にする?」とか、「置いといたらカラスが食べるかもね」というようなことを言う感じですが、生き物が死んで可哀想というのは、きっと、自分で気づくしかない、誰かに言われるのではなくて、自分が学んでいくことなんだろうな、自分で獲得して体感していくことなんだろうなという直感が強くあります。
なので私が心がけていることは、生き物が動かなくなったことに興味を持った子がいれば、それが何でだったのかと、死因を特定することです。例えばこの魚は水の中にいたのに死んじゃったね。なんでだろう?森に行った時も水の中にいたのに。と不思議がる場面では、「蛇口から出るお水には実は人間が飲んだりみんなが水遊びできるように塩素っていうお薬が水が入ってるんだよ。森の水とは違うみたい。もしかしたらお薬が入った水だったから動かなくなっちゃったのかも」とか、ずっとカエルを触ってて動かなくなっちゃったら「カエルにとってはみんな手ってすごい熱いのかも。ちょっと触ってみて。カエルは冷たいけど、みんなの手はあったかいね。もしかしたらすごくすごく熱いのかも」とか。
人間視点で”かわいそう”ではなくて、できるだけ生き物視点で感じていることや起こっていることを話そうと心がけています。そこで子どもが何を感じるかは子ども自身のものだと思いますし、何回か意図せず殺してしまうことを繰り返す中で、さっきまで暖かかったものが気づいたら冷たくなったとか、さっきまで動いていたものが止まったとか、ハッと気がつく瞬間は、それぞれのタイミングで訪れるんだろうなと最近は感じています。

 

2-6. 保護者の方々のディスカッション

ちひろ:今回のおしゃべりナイトは、みんなでおしゃべりしようという企画なので、今の話を聞いて、なんでだろう?、こういうことを感じた、これはちょっと違うんじゃないか、私はこう思う、など、是非保護者の皆さんにお話ししていただけたらと思います。

保護者Yさん:妻が育休中なので保育園の送迎をすることが少なくて、子どもから今日ザリガニが共食いして死んだんだよ、とか、〇〇を捕まえたんだとか聞くので、それを想像しながら今日参加したら、想像以上に過酷な状況だと思いました。
家ではザリガニを2匹と、カブトムシの幼虫を飼っていて、生き物との関わりが増えていて、初めは子どもも興味を持って餌をやったりしてますが、「今日は餌やらないの?」と言うと「今日は疲れたからパパママやって〜」と言ったりする様子もあり、もちろん子どもだからしょうがないですけど、一貫してない印象はあります。あと、所有欲というのか、自分が捕まえたとか、自分がこれを持っているからお友達に見せたいという話もよくしています。みんなに触られたら弱ってしまうのでは?と話しても、持っていきたい!と園に持っていって、実際死んだりもしていたんですが。
僕は鶴岡生まれなので、虫と関わることが結構多くて、保育園や小学校の時は虫を触って、鋏虫のハサミだけ取ったり、ミミズを切ったりしたことを今でもよく覚えています。それ以降は動物と関わる機会がありませんでしたが、久しぶりに子どもが生まれて生き物と関わることが出てきて、大人としてどういうふうに関わるのがいいかと日々模索していたので、今日いろいろお話しできる機会だなと参加しました。

 

保護者M.I.さん:我が家にもカブトムシの幼虫とザリガニがいて、子どもたちは今ザリガニブームで、私も悩みながらの毎日です。大人なので生命は大事だということは分かっていますけど、その伝え方がすごく難しくて。
スーパーの魚介コーナーのイラストにエビが書いてあって「あ!ザリガニ!」と子どもたちが喜んでいたのですが、食べ物としての甲殻類と自分たちで見つけた同じような種類の生き物との違いや、何は食べてよくて、何は殺してよくて、飼っている中で殺すのはダメで、食べる目的だったら殺してよい、というような線引きはすごく難しくて、言葉では表せないなあと感じています。
そんな中で一つ思ってるのは、想いとか愛着があるかどうか。これってエゴで、私の単なる思いでしかないんですけれど、ザリガニを家に連れて帰ってお世話するのが、どうしても私がメイン担当になってくると、私とザリガニの関係も無視できなくて、どうしても愛着が湧いちゃうんですね。だからあまりに雑に子どもたちがザリガニを扱っていると、子どもの学びのためだからって私の思いをそんな我慢しなくてもいいのではと思っています。
ただ、伝え方として、命は粗末にしちゃいけない!って脅かすようなことはしたくなくて。身近に生き物や植物が溢れていて、それ無しでは私たちは生きていけないのに、粗末にしちゃダメ!不可侵だ!という伝え方をすると、そこに存在するにも関わらず無いものとして、興味を奪ってしまうのではないか、という怖れがあって。脅かさずに、「ザリガニさんの事情とかあるし、飼い方わからないから一緒にYouTubeで調べよう!」「ちょっとGoogle先生に聞いてみよう!」と言いながら、ザリガニが心地良い環境を一緒に検索したりしています。
それから、保育園と家の違いについて、保育園は公共の場なので、仮に自分で捕まえてきたものだとしても、なんとなく”みんなのもの”という感覚で責任が分散してしまうこともありそうで、そこは自宅で飼うことと保育園で飼うことの違いで、子どもが当事者になりにくい難しさがあるんじゃないかなと思いました。
ちひろ:ありがとうございます。私たちは保育園側として関わりを模索したり、生き物にとって最適な環境を作るために本や図鑑を準備して「生き物を捕まえたらどうする?」という本を子どもたちと一緒に見てみたり、大人がまず真剣に飼育しないと子どもは生き物について真剣にならないんじゃないかという試みをやってみたりしていましたが、保育園ならではの特性、責任の所在や、自分のものになりにくいという視点は、家庭から言われないと気づかない、聞かせてもらって、確かに!と思った視点でした。

保護者Rさん:私は生き物が大好きで、すごく関わりながら生きてきて、今仕事でたくさんの生き物を殺しているし、守っているという立場なのですが、昔この分野に足を踏み入れるときに、大先輩が「子どもの頃にたくさんの生き物を殺せば、大人になったら守る子になる」と言っているのを聞いて、その通りだな、子どもの頃の生き物との関わりはとても大切だなと思っているのが大前提です。
なのでやまのこはとてもいい環境にあるなと思っています。
一つ気になったのが、臭いとか嫌いが理由で殺しているケースを保育者の方も感じることがあるんじゃないかと思ったところです。臭い/嫌い、だから踏む、という子どもの行為が気になっています。そういう状況では「こうだったらどうだろう?」と、視点を差し出すというのはとてもいいなと思いました。好奇心を奪わないことは大切にしつつ、子どもたちはそれ以上先のことをイメージできていないかもしれないので、こうだったらどうだろう?という視点をあげることをストップしなくてもいいと感じました。嫌悪感で命を奪っているケースは、多少は「かわいそう」という視点を入れてもいいのかなと。
今日は、どうやったらよりよくなるかと考える保育者の皆さんの話を聞いて、すごくいい方向にいっているな、楽しみだなと思いました。
ちひろ:ありがとうございます。命と向き合い続けたからこそ、結果的に命に対する考え方が変わってくるということは、子どもたちの関わり方のこの3ヶ月の変遷をみてもすごく納得できるものでした。

保護者M.F.さん:我が家は虫とはまだ無縁かなという感じがして、今回の話は聞くだけかと思いながら参加しましたが、今皆さんのトーク中に子どもに「虫殺したらどう思う?」って聞いたら、本人は「殺さないよ、かわいそうだから」と。私は何も教えてないですし、私は虫とか結構無縁な感じなので、きっとやまのこで色んな関わりを見たり関わったりする中で、そういう発言になったのかなと感じました。
我が家では少し前に、子どもたちが生まれる前から飼っていたペットの犬が亡くなってしまったのですが、火葬してお骨をお墓に入れるという中で、特に私が何か言ったわけじゃないんですけども、子どもたちは生命についてかなり学んだと思っています。
”さよなら”というのが2つあることを、3歳の娘が最近覚えたのですが、ペットの犬の”さよなら”は死んでしまったさよならで、お空に逝ってしまったということ。そして、少し前に退園された友達のSちゃんのお引越しの時に「Sちゃん、さよならなんだって」と言ったら、娘が「Sちゃん死んじゃうの?お空に逝っちゃうの?」と言ってきたんですね。それで「さよならというのは2つあって、犬のように死んじゃってお空に逝っちゃう意味と、もう一つ、Sちゃんは引越しをするから違うところで元気に過ごすんだよ」と伝えたら、娘はSちゃんの話をする時は前方を見て話すのですが、犬の話をする時は空を見て話すんですよね。きっと自然と、犬はいないから空にいて、Sちゃんはどこかで元気に過ごしてるから前を見ているという感じなのかな〜と思っています。
本当に特に私が何か言うわけでなくても、これらの経験から刺激を受けて自然と学んでいっているところは、やまのこのおかげだと日々感謝してます。
保護者M.Kさん:我が家は生命の大切さや、死んだら悲しいということは、結構ストレートに「パパとママがいなくなっちゃったらどう思う?」というと、「いなくなったら悲しい、やだ」と答えてくれて、そうやって教えています。最近は子どもが虫を飼いたい、連れて帰りたい、と言うことが多くて、何も入ってない虫籠に虫を入れて、飼いたい、連れて帰りたいとよく言うのですが、そういうときには自分に例えて「じゃあ〇〇くんはご飯もお水もお布団もない部屋で生きられるの?」と聞くと「生きられない」と。「じゃあ飼いたいのだったら、ちゃんと環境を整えて、虫が住みやすいお家に作ってあげないと。まずはそこからやらないと飼えないよ」という話をよくしています。

ちひろ:なるほど。今日は、昨日捕まえてきたカエルの家を保育者と一緒に一から作って、カエルが住みやすい環境ってどうかなあ?とすごく真剣に考える様子がみられた一日だったと思うので、ご家庭での関わりが保育園の姿にも繋がっているなと思いました。

 

2-7. 保育者の感想、メッセージ

ちひろ:最後に、今日の会で感じたことや、これからのどんなふうに子どもたちと生き物と関わっていくかなど、保育者からメッセージをお願いします。

つきみ:皆さんの話を聞きながら、子どもたち同士が教え合う姿について思い出しました。弱ってしまったトンボを前に、これまで様々な経験をしてきた年上の子が、「こう掴んだら飛べなくなっちゃうよ、ここを捕まえたら弱っちゃうよ、死んじゃうよ、こう捕まえたらいいんだよ」と、あまり動かないからこそよく観察できるのでトンボの細部を見ながら年下の子に教える姿を見て、きっと年上の子は、自分が過去にその部分を持って潰してしまった経験や、動かなくなってしまった経験があるからこそ、同じことをしようとしている小さな仲間に、こうなったらこうなるんだよと伝えているのだと感じました。
自分の経験を相手に教えたい、伝えたい。この感覚、すごい豊かだなと思います。教えられた子は、こうやって捕まえるんだよと言われても、力加減がわからないので潰してしまったりしますが、きっと教えてもらった経験や、自分の関わりで動かなくなってしまったという経験が、また次の人にどんどん伝わっていくのではないかと感じました。皆さんから色々なお話が聞けて、生き物について改めて、どんな環境で子どもたちと見守れたらいいかなど考えるきっかけになりました。

あさこ:今日のお話を聞いて、保育園だからこそ出来る事というのを私は個人的にもっと深めていきたいと思いました。保護者Yさんが「想像以上に過酷な状況」とザリガニ水槽を見て仰られましたが、多分これ以上に過酷な状況が見込まれていまして。例えば、外来種であるアメリカザリガニは、一回捕まえたら基本的にその辺の池に返すことができないので、子どもたちが捕まえて、俺のザリガニ持って帰る!となれば、どんどん増えるシステムなんですね。大人が「これ以上は飼えないから、もうザリガニ捕まえるのやめよう」と提案するのは簡単ですが、スタッフ同士で話したのは、子どもたちの「捕まえたい!」という気持ちはものすごいものだし、この年代特有のものなので、それを尊重したいね、ということでした。
ザリガニを飼うってどういうことなのか、いっぱい飼うってどういうことなのか、手に負えないということを子どもたちと一緒に体験してみるのはどうか。試しにこの夏は子どもたちが連れて帰りたいというものを全部飼ってみる?という話も上がっていて、ザリガニ養殖場みたいに何十匹となったときに子どもがどんな反応をし、どんな議論が子どもたち同士で起こるかをみる、という、大人はそれぐらいの覚悟を持って子どもたちの生き物との関わりを見守るのはどうかという話も出ています。もちろんこれは決定ではないですが、それは保育園だからこそできることだと思うんですね。
もちろん、人間が釣りたいから釣りたいだけ釣って、窮屈な環境でザリガニを大切にしてるのか?という問いはあります。でも、大人だけで話し合って決めるのではなくて、できるだけ子どもの好奇心をサポートする形で生き物と暮らしつつ、場面ごとで都度大人が問いかけたいことを子どもと一緒に考えていくことを、保育園として、私として大事にしたいし、この夏の大人のチャレンジだと思っています。大変だ!仕事が増える!という思いと、楽しみでワクワクする気持ちとがあります。また保護者の皆さんと共有していきたいです。
ちひろ:生き物が面白い!楽しい!捕まえたり触ったりするのが気持ちいい!という子どもたちの気持ちは、むくむくと湧き上がってくるもので、止められるものではないということを、近くで見ているとよく感じます。結果的に死んでしまうことも日々ありますが、積み重なることによって獲得していくものがあると思っていて、どれくらいの力で握れば大丈夫か、これくらいやったら死んでしまうな、というのは積み重ねた実体験でしか得られない、おもちゃでなく本物でしか味わえない感覚というもの、言葉では表せない、獲得するものであると思います。獲得するものより強いものはないんじゃないかと。
もちろん大人がこうしたらいいよ、とサポートはできますし、「生き物は殺しません。可哀想だから潰しません。その力をもっと優しく。生命は大事だよ」など言うことは出来ても、それは与えられるもので、もちろん与えられるものと獲得していくことと両方あっていいとは思いますが、獲得するものには優れないという感覚があります。
いずれ「私、こんな残酷なことしてたんだ…」と気が付く時がそれぞれのタイミングでくると思ってます。そのタイミングは一律ではないし、「大切にしようと思うけどやっぱりちょっと触りたいな」と揺れる気持ちの中で行ったり来たりしながら、ゆっくり進んでいくのが子どもの世界なんだ、と、大人自身が知っておくことは、子どもの近くにいる人として大事にしていきたいと改めて思いました。

 

3. 考察 -大人の葛藤はどこからくるのか

子どもたちの生きものに対する好奇心は凄まじいエネルギーで、触りたい、つかまえたい、持って帰りたい、いっぱい欲しい、など湧き上がる感情は多様です。そんな子どもたちの姿が大人の目にはどのように映るのか、また私たち大人の言う「子どもの成⻑を見守りたい」という言葉のニュアンスの違いについてあくまで私の主観ですがこのように整理してみました。
ある大人(大人1)の目には、子どもたちの生きものとの戯れが、特に小さな生きものに対しての力加減がまだ難しいという点、生と死の概念が曖昧であるという点で加虐的に映っていることが多いのではないかと感じました。大人2の「見守りたい」のニュアンスは、命を大事にしてほしい、優しい子に育って欲しいと言う思いが込められているように感じました。そのように見守るために、もちろん先回りして答えを教えるようなことはしたくないのだけれど、大人として倫理的な正しさについて助言する責任を感じているのではないかと思いました。

一方である大人(大人2)の目には、子どもたちの生きものとの戯れがより実験的に映っているのではないかと感じました。大人1の「見守りたい」のニュアンスは、生きものを通してその子が体験していること(虫を意図せず死なせてしまうようなことも含めて)の過程をできるだけ大人の介入/先入観なくその子自身で体験してほしい、と言う思いが込められているのではないかと思いました。そのように見守るために、子どもが今何を体験しているのかつぶさにプロセスを追うことや、その子が感じ考えたことの表現をありのまま受け止めたいという思いが強いのではないかと感じました。

重要なのは、大人1、大人2の要素(また他にももっとあるかもしれません)は決して矛盾するものではなく、むしろ双方を尊重しようとすることで悩みが生まれる、ということを認めることなのかもしれません。子どもに何を伝えるか迷ったときに、大人自身が自分の感情に嘘なくコミュニケーションすることの大切さも改めて感じました。そういった意味で、今回の座談会では、大人の議論が「保育者(保育園)としてこうあるべき」「親としてこうあるべき」から出発するのではなく、そもそも私は今何を感じていて、それはどのような体験から来るものなのか、という等身大の問いから始められたことが豊かな対話につながったのではないかと感じています。

 

4. おわりに -子ども同士の学び、死という概念の曖昧さについて

子どもの成⻑を見守る上ではどうしても大人と子どもの関わりに焦点が当てられがちですが、子ども同士が常に学び合っているということにも改めて着目したいと思います。夏から秋にかけて私が象徴的だと感じたエピソードをいくつか紹介します。

・つかまえた1匹のアマガエルを水流のある場所で何度も流し、くるくるまわっている様子や水圧で身体が凹む様子などを見て「はやいはやい!」「どこいった?あんなところおよいでる!」「すっごいびよんびよんだね!」とA.HくんとN.Hくんが楽しんでいました。カエルが水の中で泳ぐのをみて、A.Hくんが「あ、よわってきた。」とつぶやきました。N.Hくんが「なんで?」と聞くとA.Hくんは「だってゆっくりになった。」とカエルが泳ぐスピードが遅くなり身体を水面に浮かせるようなしぐさが増えたことを伝えていました。2ヶ月ほど前、カエルを握っていたA.Hくんに私が「このカエル大丈夫?」というような声かけをしたら「え?うごいてるよ。」と瀕死のカエルを指でつっつき、わずかにピクっと動くと「ほら!げんきだよ。」と教えてくれたことを思い出しました。結局水流遊びの場面では、カエルが弱っているからやめようとはならずそのまま遊び続けていましたが、私は、彼らがカエルの状態に自分で気づいたことが、そう遠くない未来に、なぜ弱ってしまったか、弱ったカエルをどうするかを自分で考えられるようになるステップになるのではないかととらえました。
・生きものが死ぬと、子どもたちから「うめよう!」「おはかつくろう!」という雰囲気になることがあります。彼らの捉え方は十人十色で、「はやくげんきになってね!」とバラバラになったカマキリに土を被せる子、「ここにいれたらえいようになるかも。」と園のコンポストにザリガニを入れることを提案する子、「よるにかみさまがつれていってくれるんだよ。」とお墓の意味について考える子など、子どもたち同士で「動かなくなった生きもの」の扱い方についてコミュニケーションしている様子がよくみられました。

・生きものが死んだらかわいそう、という感覚もある中で、モンシロチョウの羽をむしりカマキリの餌にしようとする姿や、ハエやコオロギを捕まえてカエルに食べさせようとする姿も秋頃よくみられました。子どもたち同士で「このむしはかわいそうだからえさにしないで!」「やだ!たべさせたい!」というやりとりが日常的に起こっていました。またこの時期はトンボをつかまえることに夢中だった子も多く、トンボの捕まえ方(羽を優しくつまむ)も大きい人から小さい人へ伝承されていました。ある日、交尾中のトンボを園庭の水たまりで見つけ、2匹を引き離すように捕まえているAちゃんに「らいねんもトンボにあいたいからおれはしない。」と仲良しのEくんが伝えていました。Aちゃんは「え?」と言ってトンボを離していました。Eくんの決して強要しない言い方、そしてAちゃんの友達の発言から何かを感じとる力、そんな姿からも子どもの世界で「命を大切にする」という意味の広がりがでてきているのだと感じました。
・森の日の活動での探検中、Mちゃんが「みて。これわたしのカエル!かわいいでしょ。」と自分の肩にアマガエルを乗せて歩いていました。Mちゃんは「おなまえつけよっかな〜?」「こっちみてる!」とカエルとの時間を楽しんでいるようでした。道の途中でカエルが肩から降り、茂みの方へピョンピョン跳ねて行くと、隣にいたEちゃんが「まってMちゃんのカエル!」とカエルを追いかけようとすると、Mちゃんは「だいじょうぶ!にげたってことはもうわたしとはあそばないってことだから!」と伝え「カエルばいばーい!」と言って歩き始めました。Eちゃんは自分の善意が断られたようで一瞬むっとしていましたが、カエルが見えなくなるとすぐに別の話題でMちゃんと話し始めました。森に行くと、子どもたちは「あ、ここむかしバッタにがしたところだ。」「あのヘビいるかな〜。」という表現をします。自分の手元にあることと、いつも来る豊かな森で出会えることの交わりが生まれているのかもしれません。

好奇心から生きものをおもちゃのように扱う姿、命あるものとして生きものを尊重するような姿、食べる、食べられるの関係を俯瞰してみているような姿など、エピソードではそれぞれ別の子どもたちを紹介しましたが、同じ子どもの中でも様々な関わり方を行き来しているのではないかと思います。子どもたちのそばにいる大人として、彼らの体験のバリエーションを増やすことと目の前の命と向き合うことの両立を目指すものの、常にベストでいることは難しく、反省の日々です。このおしゃべりナイトとその後の子どもたちの姿の共有が、改めて、子どもたちの成⻑を見守る大人同士、また大人と子どもの対話のきっかけとなれば嬉しいです。

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