2023.03.29
カルタをめぐるあれこれ
Text : Chihiro Taniguchi
2022年の12月からお正月遊びの紹介として室内環境に導入したアイテムの一つがカルタでした。
カルタに限ったことではありませんが、2才〜6才のいる環境の中で素材を選ぶポイントは、安全であること/わかりやすいこと/誰しもが楽しめる切り口があること、だと個人的には考えています。
そのため、上記の点を考慮しながら、子どもたちの遊びがどのように展開されていくか予想しつつ、カルタも難易度や表現の特色が違うものを5種類用意してみました。
2月末現在も継続して子どもたちが遊び続けているカルタについて、当時を振り返りながら考えてみたいと思います。
12月後半、子どもたちに紹介してみると、すぐに興味を示したのは、5〜6才頃の子どもたち(以下、大きい人たち)でした。一度ルールを伝えると、その場にいた数人がハブとなり、あっという間に大きい人たちの日課となりました。また、日毎、繰り広げられるカルタタイムの様子を傍でじっとみていた2〜4才頃の子どもたち(以下、小さい人たち)の姿にも、ワクワク感を覚えたことを思い出します。それはあの風景の中から、はっきりとした形はみえないけれども、今後の展開における期待のようなものが私の中で生まれていたからだったのか!と今こうして振り返ることで納得感と共に、あの時のワクワクの理由を再発見できています。
導入したばかりの頃、大きい人たちは、取った枚数によって一喜一憂し、時には悔し泣きしたり、地団駄を踏んでもどかしさを表現したりしていました。また、負けることを回避するために、自分より大きい人たちと一緒にやることを拒んだり、枚数を多く取れそうな人を輪に入れない作戦を立てていた人もいました。
そんな中、傍でじっと様子を見ていただけの小さい人たちが動き始めました。
それは1月の半ば、大きい人たちが少なくなった夕方に、小さい人たち4人がカルタを広げ、自分たちなりにカルタ”ごっこ”を始めたのです。誰かがそれとなく読み、他の人が取る、取っている札は手当たり次第な感じです。読んでいると思われる札も、2つの読み札を延々と繰り返すという展開でしたが、その4人の中ではちゃんとカルタの世界を味わっているように見えました。
その後も、彼らの夕方の時間の楽しみとなってカルタ”ごっこ”は繰り返されました。
”まなび”という言葉は”まねび”からきているという説があります。見たものを真似をして自ら獲得していくことから学びが始まるという、ある人の言葉がしっくりと来た場面でした。
2月頃、大きい人たちのカルタの輪の中に、小さい人がちらほら入るようになってきました。入ると言っても、札の読み手の大人にくっついて、その横でちょっと手を出したり出さなかったりで、対等に在る感じではなかったのですが、見ているだけではなくなってきたのです。
そんな彼らの様子をよくよく観察してみると、小さい人たちは札の文字ではなく、これまで何度となく聞いてきた読み札の音と、絵札に描かれている絵をリンクさせて取っているのかもしれないということに気がつきました。そしてその傾向は特に小さい人に強く表れると感じます。私は、絵と文字とでは、文字の方が情報量としてはコンパクトでインプットされやすいのではないかと考えていたのですが、どうもそうではないということが目の前の人たちによって裏付けられたのでした。
そもそも、子どもたちにとって文字というものがどのように獲得され、それぞれのものとなっていくのかを整理してみると、多くの子どもたちはまず、文字を絵や記号としてインプットしているように見えます。それから、覚えた文字と自分の身近にあるものの名称とを結びつけたりパズルのように組み合わせたりしながら、繰り返し文字というものの特性や、うま味を理解していき、次第に使える情報のツールになっていくのだと思います。
個人的には、文字が情報のツールになりきっていない曖昧なこの時期だからこそ、文字というものになるべく自然に出逢ってほしいという願いがあります。大人が教え込むという手立てではなく、生活の中に当然のように存在する素材として、それぞれに訪れるタイミングで、いつの間にか遊びの中でその人の中にするりと入っていくものとして、また、「読んでみたい!書いてみたい!」など内面から溢れるニーズと結びつくものとしてあってほしいと思っています。
実際に、文字の読み書きに苦手意識があり、避けていた6才の子たちがカルタをきっかけに、ほんの少しずつですが文字と出会う姿、チャレンジする姿が生まれてきました。
文字を読めるようになるということは、自分を取り巻く世界の情報量が一気に増え、広がり、今までとは世界の見え方が一変するのではないかと思います。また、子どもにとっても、私たち大人にとっても、文字は自分の頭の中で生まれているものを具現化するツールであり、考えていることを表現したり、それらを誰かに伝えたり分かち合ったりすることを可能にしてくれます。特に文字を獲得したばかりの子どもたちにとっては、社会と繋がりが一気に広がり豊かになるツールだと見取ることもできます。
さて、カルタの話に戻しますと…
現在のやまのこでは、小さい人も大きい人も自然と同じグループ内でカルタを真ん中にして向かい合う場面を多く見かけるようになりました。加えて、これまでは大人が読み札を読むことが多かったのですが、子どもだけのグループで完結することも増え、自立した遊びへと変化してきています。また、自分たちでルールを定めたり、子どもたち同士の関わり方も工夫している様子があります。小さい人がいる場合は、少しだけ手加減したり、同時に札に触った場合は話し合ったり時には譲ったり…
狙っていた札を取れずに悔し泣きしていた子も、今ではひょうきんさを前面に出して戯けたり、エネルギーの放出方法を変えたりと 、”競う<その場を楽しむ” へと変化しているように感じます。
カルタという一つのアイテムは、小さい人から大きい人までの子ども同士の関わりを加速させ、豊かな学び合いの機会を多く作ってくれたと感じています。しかしながら、これまで述べてきたような様々な関わり合いや学び合いの場面は、一朝一夕に生まれるものではないとも思っています。これらの子どもたち同士の関わりの場面の地盤を作っているものとして、”朝のつどい”の形が変化してきたことがあるように感じられます。”朝のつどい”のあり方は、これまで何度となく保育者たちの議論のテーマとなり、普遍的な問いでもあります。
子どもたちの自由選択とコミュニティとしてのアイデンティティを両立させるにはどうしたらいいのか?
保育者はつどいに積極的に誘う方がいいのか?
子どもの遊びを中断させてまでつどいに参加させる意味があるのか?
と保育者たちは問い続けてきましたが、11月頃から、子どもたちが自然と集まってくるようになりました。
これには、様々な背景や要因があると想像できます。要因を一つに絞ることはできませんが、少なくとも子どもたちの中で「なんだ、参加してもいいじゃんこの時間」というような雰囲気が醸成されていったように感じています。また、毎回恒例の「お手を拝借!つどい、おーしーまいっ!」という一本締めをつどいの終わりに参加者みんなで行うことも、コミュニティの結びつきや、この場所が自分たちの場所であるという認識の握り合いに影響しているのではないかと感じています。
“朝のつどい”は、様々な年齢や特性のある人たちが一堂に会する、という子どもにとっても保育者にとっても難易度が高い時間かもしれません。大人が試行錯誤してきた中で、何かきっかけがあったり大きな変化を起こしたわけではないですが、少しずつ子どもたちの受け取り方や行動が変化してきたように感じます。
そのような少しずつの積み重ねが、一日一回は顔を合わせる時間につながり、そこで話を聞き合ったり、発言をサポートし合ったりすることなどを繰り返し、この場所への所属感や安心感を育んできたのだと、想いを馳せずにはいられません。しかし、本格的にクラスを無くして一年、ようやくこの異年齢でのコミュニティの輪郭が形になってきたと実感しています。
年長さんが卒園するまであと数十日ですが、まだまだこのコミュニティでは新しいドラマが生まれる可能性が溢れていると感じています。
保育者 一朗さんより… 子どもたちの変化や成長、コミュニケーションの広がりや深まりが、カルタという一つの遊びを継続的に楽しむことによって自然に生まれていることを感じます。ひととかかわるってたのしいなぁ、とか、あの子はこんなことおもってたんだ、こんなおもしろいとこあるんだ、みたいな感覚が、じわじわやまのこに、そしてそれが世界に広がっていったらいいなと思っています。 |