2021.02.01
いのちの終わり
Text : Yukari Sato
1月9日、とりのモモちゃんが天国に行きました。モモを家族に迎え入れてから息を引き取るまでの16年8ヶ月、長いようであっという間の時間でした。コザクラインコは本来、アフリカ南西部ナミビア共和国の半乾燥地域に生息しているインコです。共に暮らす時間はかけがえのないものでしたが、モモの生きたい姿や自由を奪ってしまったのではないかと思うこともありました。それでも家族として迎え入れたこと、一瞬一瞬がモモにとっても幸せであったらいいなと願うばかりです。
保護者のみなさまからも「我が子がお家でとりのモモちゃんのお薬をつくっていました。」とか、「ぬいぐるみを肩にのせて“モモちゃんだよ“と見せてくれます。」など、様々なエピソードを聞かせていただきました。
子どもたちの記憶の中でモモが生きていて、本当に幸せな小鳥です。たくさん愛情を注いでくださり、ありがとうございました。
毎日会っていた小鳥の「死」を、子どもたちはどのように受け止めるのだろう?と想像がつきませんでした。いくつか印象に残ったエピソードを紹介します。
Rくんのエピソード
モモが死んでから初めての登園日。私が鳥籠を持っていないことに気づいたRくんは「あれ?とりのモモちゃんは?」と尋ねてきました。モモが死んだことを伝えると、表情が固まり、沈黙が流れます。一点を見据えるRくん。視線を曇らせながら「死んじゃったってこと?もう会えないってこと?」と聞いてきました。
日々を過ごしながら彼の中で「Yさんの、それ」だったのが「ぼくの友だち」に少しずつ変わっていったのを感じました。「せっかく仲良くなれたのに、もうつぎは会えない」と教えてくれました。モモの亡骸を子どもたちに見せる機会をつくれなかったので、死のリアリティを感じることよりも、「死」を想像して思いを馳せていたように思います。
Aくん、Kくんのエピソード
夕方になると、決まってモモに会いに来てくれたAくんKくんは「ねえねえ、きょうもとりのモモちゃん死んでるの?きょうも、あしたも、そのつぎも、しんでるの?あいたいのに。」と尋ねてきました。死んでも、また会える存在として、モモが生きているのでしょうか。今でも夕方に「ねえねえ、とりのモモちゃんは?まだ、死んでる?」と会いに来てくれます。
子どもたちはモモの遺影で足を止めたり、外に出ると「あ!とりのモモちゃんとんでる!」と発見しています。やまのこでモモと暮らした記憶が確かにあって、モモの存在が彼らの心の中で今でも生きていることを感じます。「死」さえも曖昧な、柔らかい世界が広がっているようです。モモという小さな小鳥の死が、雲のようにひとつの形として記憶される瞬間もあれば、空気中に霧散して見えなくなってしまう曖昧な記憶になっているようにも思います。でも、彼らの中に確かに存在し続けている。もしかしたら私たちが後世も大切にしたい「生命」も、雲や霧のように絶えず形を変えながら存在し続けていて、形として存在するのはほんの一瞬の姿なのかもしれません。
死を避けたいものとしてみてしまいがちな私にとって、生と死の境界線を曖昧なまま生きている子どもたちの感性に触れることで、モモの死を静かに受け止めることができました。そして、モモの死を通して、子どもたちの中で、いのちが記憶や形をかえて存り続けていくプロセスを一番近くで体感しました。いのちは有限であることを知っている大人が関わる生命の捉え方や関わり方と違って、子どもたちは目の前にある今を生きていて、ついさっきまであった命が終わりを迎えたとき、その先を想像してみたり、姿を変えて存在していると捉えているようにもみえる子どもたち。目の前からいなくなっても、モモは、生きている、と子どもたちを通して感じることができます。
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