やまのこ保育園

惑星のようす

"子どもの心の跡をたどるとき"

2021.09.01
子どもの心の跡をたどるとき

Text : Yukari Sato

 

お昼ごはんの時間に保育室の様子を見に入った時のこと。Tちゃんが私を見つけて近づいてきました。「ゆかりさんと、いっしょ」と私の手を引いた後、カーテンに隠れます。

「ばぁ!」

カーテンの裾から顔を出すTちゃん。何度か繰り返した後、ふとカーテンの裏側へ視線が移ります。そして窓際に横たわっていたコップを見つけました。

 

「こっぷ」「つめたいねぇ」とTちゃん。そのコップはきんきんに冷えていて、コップの中にお味噌汁のカスがついていました。昨日の昼食の時に使ったコップのようです。

Tちゃんがコップを握ると、手との温度差でコップの表面がくもり、その様子をTちゃんはしばらく見つめていました。

 

Tちゃんからひんやりしたコップを受け取った私。「だれかが、ここで、どんなことしていたのかな」と昨日の保育では気づかなかった子どもの姿を想像し、カーテンに隠れながらその子だけの時間が流れていたのかな、と思いを巡らせたひとときでした。

 

津守真「子どもの世界をどう見るか」の一文をご紹介します。

 

子どもたちが去ったあと、あるいは眠ったあと、保育者は、さし迫った現実の要求からひととき解き放たれ、無心になって掃除をするときが与えられる。三輪車がひっくり返り、思わぬところに積木がちらばり、そのところどころに、保育の最中には気づかなかった子どもの心のあとを見出す。それと共に、子どもと応答していたときの体感や物質のイメージがよみがえる。いずれも、無心に掃除をするときに、向うからやってくる。もう一度心を止めて見よというかのごとくである。(『子どもの世界をどう見るか』津守真、p. 183)

お昼寝中の保育室や夕方の保育の後、片付けは、毎日の暮らしで気づかないようなあそびや、忙しさにかまけてこぼれ落ちてしまうような保育者とのエピソードを思い出させてくれます。そしてメモに書き残せなかった子どもの姿を保育者自身が振り返る。日常での子どもの表現を観察し、感じ取ろうとすることもまた、その子との関係性に直結するのだと思います。

 

家に帰って布団の中で眠りにつくまでのほんの一瞬でも、今日の出来事を省察し、そして太陽が昇り1日が始まるときに、子どもたちに、自分に、出会い直します。

 

ある日のご飯の時間。Aちゃんが全身にご飯粒をつけて、手づかみでご飯を豪快に食べていました。床いっぱいに広がるご飯の粒。そこに食事を終えたAちゃんが寝転びます。これまでは「そこに横になると、ご飯がつくと思うなぁ」と声をかけていた私ですが、この時はじっくりAちゃんを観察してみることにしました。瞼がゆっくり閉じたり、開いたりしながら、天井を見つめています。服や髪の毛にご飯粒がついても、お構いなし。足を左右に揺らしながら足の親指をしゃぶります。そのAちゃんの姿から、微睡んでいるような、深呼吸しているような、無意識の領域で幸せを感じているように私は感じとりました。私が幼少期にお腹いっぱいになって畳の上に寝転んだ心地よい記憶が蘇り、「言葉はないが満たされている感覚」を味わってほしいと思い、その時のAちゃんの行動を見届けたのでした。Aちゃんの行動が、彼女の世界観と私の世界観との間を行き来し、Aちゃんの表現として受け取ることができた時間のように感じました。

 

子どもの行動の背後には、子どもの内的世界があることがわかる。さらにまた、自分自身の世界を持ったおとなが、子どもの行動をとらえるのである。観察された行動は、子どもの世界とおとなの世界との中間にあるものであって、この両側の世界を考えることなしに、客観的行動だけを問題にすることは出来ないだろう。(『子ども学のはじまり』津守真、p.13)

 

日々の暮らしの中でその子が持っている世界観と、そこに関わる大人の世界観が相互に作用しあって空間・場所・感受性が育まれていくのだと思います。大人の存在が大きすぎたり、、子どもの表現の解釈を決めつけてしまうとその世界はすぐに景色を変えてしまいますから、関わり方は本当に難しく、答えがありません。常に問いと判断の連続ですし、保育者の洞察力が試されます。

 

時間がひととき経つと、自ら布団に向かっていくAちゃん。歩く先で待っていた保育者に「からだじゅうが、ごはんつぶだね!おきがえしてきもちよくなろう」と声をかけられ、トイレに向かうのでした。

 

 

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