2021.03.01
節分プロジェクト2021 節分や異界をめぐる表現
Text : Tomoko Nagao
やまのこではこの2年「節分てそもそも何だろう?」と、職員全体で節分をつくってきました。今回も有志が集まった節分チームで話し合い、コンセプトは2019年、2020年から引継ぎつつ、プロジェクトが展開されました。
2021年のやまのこの節分
・「異界からのお客さん」が訪れ、異界と出会う日
※「鬼、悪い者が来る日」という大人の態度はとらない
・「冬祭り」的なもので、冬の最期に、翌日からの春の訪れを祝う日
※冬祭りは、かつて冬の終わりの大晦日的な存在で、翌日には春祭りがあったという。日照時間が少なく、植物も枯れ、生命のテリトリーが一番狭くなる冬。そこで、山から降りて来た翁と嫗が、山の精霊が暴れるのをしずめ、植物の若芽を撒くなど、生のテリトリーが再び息吹くための行為を行ったという。
・豆まきは、翌日の春の訪れを喜び、新しい命(種)を蒔く「種まき」として行う
また、今年は園児の半数以上が、異界からお客さんを迎えた2019年、2020年の節分を経験していることから、子どもたちの中に、どのような記憶やアイディアが広がっているだろう?と、「節分や異界をめぐる表現」をみつめてみることにしました。
この文章では、節分チームが集めた子どもたちの表現を通して今年の節分を記述します。
節分1週間前(1月26日)
(あけび組4-6歳の有志10名と20分ほど節分の話をした時の記録です)
-保育者「来週2月2日って何の日だか知ってる?」
「豆投げる日!節分!」
-保育者「去年はどうだった?節分ってなんだろう?」
「最初の節分は1人しかお客さん来なかったけど、去年は2人きた。だから今年は3人来るんじゃない。赤い顔のお面の人とわらで隠してる人。初めて見たときは怖かった」
「倒そうとしていた人いたよ」「もう一回来て欲しい。面白いから!一緒に踊りたいから!」
-保育者「何者なの?」
「人!化物!」
-保育者「なんのために来たんだろう?」
「踊りに来た」「みんなを幸せにするため」「みんなを守るため。怪我から、不幸から、菌から、守る」「人が死なないように!」
「危ないことに合わないですむ。あの(去年お客さんが植えていった)2本の木はどこに行ったんだろう?あれとあれ(園庭のケヤキとイチョウを指して)ではないしねえ」
「木をさせば、元気に暮らせるから、植えて、置いていってくれたとか?」
「願い事をみんなに届けるため。その日に自分の願い事が叶う。自分の夢を叶えるため」
「木にお手紙を貼っておいたら?」「あーわかった!七夕?」「新型コロナが消えるように」
「葉っぱと木は、バイバイするために持ってきた。葉っぱと木が繋がってた」
節分当日(2月2日)異界からのお客さん
homeでは「はるよこい!」と籾付きのお米をまいていたところ、庭からお客さん到来。子どもたちは保育者にしがみつきながらもじーっと見つめ、皆の視線が一箇所に集まる中、お客さんはゆっくりと舞い去っていきました。
やまのこでは、落花生で豆まきをしていると、鈴の音が聞こえ、ゆっくりとお客さんがやってきて、窓からあけびの部屋へ。
「こんにちはー!」と何度も話しかけようとする人
大声で何度も「鬼は外!」と豆を投げつける人、「豆どうぞ」と渡そうと試みる人
踊ろうと後ろについて行き、鈴の音に合わせて踊る(ジャンプしている)人
泣きながら保育者に抱きつく人
お客さんを追いかけて1人真っ先にあけびの部屋へ走って行った人
口を半分開いた状態で目だけはじっと来訪者を追って一言も発さない人
目を隠して見ようとしない人、泣く人、じっと固まっている人。
当日、お客さんが去ったあと
あけびの部屋から再び庭に出たお客さんは、吹いてきた強風に圧されるように移動し、葉のついた枝を雪の上に挿して去っていきました。
「何かきたね。なんだったんだ?」
-「鬼」「やさしい鬼」「神様」「人間!」
「何しに来たんだろう?」 – 「お祭り!」「福を持ってきた!」
「人間がお面をかぶっていた。鬼は神様だから、神様のお面ってこと」
「また葉っぱさしていった!100回会いたい!」「鬼と歌った!」
「最初は怖かったけど、楽しくなった。ついて行きたくなったけど怖かった」
ジャンプして踊りを真似る子
「たいほしたよ。Yさんがおいかけて、パトカーつかまえるんじゃない?パトカーにのってつかまえる、あのおばさん」
「やさしいおにひときた。あーこわかった。やさしいおにひとだよ(植えられた枝を見て呟き続ける)ピーナッツたべてたの、おにだった。チリンチリンおにこわかった」
雪の上に植えられた枝を見にきて、「いっしょにあの人さがそうよ!」と庭を捜索する人、「この木なんだろう」「落花生の木じゃない?」「みんなを元気にするため」「もしかして、お守りみたいな感じ」「ぬいちゃダメ、ぬいちゃダメ、でてきちゃうから。ピーナッツたべちゃうから。ぬいちゃダメ」(枝を抜くとお客さんが雪の下から出てくると考えたのでしょうか)。
その後
昼食は大豆ごはんに納豆汁と豆尽くしメニューで、午睡後のおやつは恵方巻。子どもたちの中には、夕方になっても、翌日になっても、節分が息づいていました。
夕方:「おにがきたんだよ!」
-保育者「こわかった?」
「やさしいおにだったんだよ!豆をこうやって(手をぎゅっとする)もらってくれたから」
-保育者「いまからhomeに行くんだけどさっきの人いたらどうしよう」
「おにぎりあげたらいいんじゃない?」「ぼくいっしょにいってあげる」
翌朝:(ペンで何かを描きながら突然)「おにさんいま山にいるんだよ」
-保育者「やまでなにしてるかな?」
「山で何かにあいさつしてる。おにさんいま山にむかって歩いてるんだよ。(吹雪の外をみながら)雪で転んじゃってるかもしれない」
あけび組では節分後、異界の捉え方や視点をひらくために、世界各地の異界人(ナマハゲ等)の写真ファイルを保育室に用意したようです。
子どものたちの表現は、異界に対して感覚を総動員させて応答し探究していく様子そのもので、「わからない」「しらない」という表現はなく、こうだった、ああだった、きっとこうだ、と世界を拡げていく表現でした。置き土産の枝葉をめぐるやりとりは、子どもたちが常緑樹の生命力や、異界と土と植物が繋がっていることを感受し、結果、守られている感覚を手にしていたように思われます。
また、やさしいけれど怖くて、ついていきたいけれど怖くて、鬼であり人であり、神様か、化物か、おばさんかもしれない何者かに、豆をあげたい、もう100回会いたい!一緒に踊りたい!という気持ちが呼び起こされる様子からは、子どもたちが、お客さんを、わからない異界の存在でありながらも、どこか親しい存在として捉えている印象を受けました。
もし子どもたちが身近な存在として捉えていたとすれば。それは、何者かがこのコミュニティによって生まれたものだということが関係しているかもしれません。
「仮装は、ある限られたコミュニティにおける小さな儀式であること自体が意味を成すことが多い」という仮面屋を営む知人の言葉をもとに、やまのこというコミュニティにおいて節分が持つ意味を問い、「冬の最終日に春の訪れを祝い、異界と出会うセレモニー」という意味が仮装と接続し、何者かが誕生しました。
鬼の再現でも代替者でもなく、この意味にまつわるコミュニティ由来の品々が寄せ集まることによって生まれたもの。
1年を通してやまのこご飯でいただいている板垣さんの有機米。冬と春の節目である節分に、その有機米を実らせた藁(冬を想起させる枯れた草)と、職員から集まった春を呼び込む鈴の音と春色を纏い、庄内の裏山の常緑樹の葉っぱ(春を想起させる生命)と共にある存在は、来訪者でもあり、ここから生まれたものでもあり、ただそれだけでこのコミュニティと結びついた意味を成しており、そうした食や土地との連なりが波動となって、子どもたちにも伝播していたかもしれないと思うのです。