2021.07.30
七夕の水集めと「地球に生きているという感受性」
葉っぱの水滴から雨水を集め、それで墨をすり、その墨で描き、これらの行為全体を「祈り」として捉える、2019年からのやまのこの七夕スタイル。保育者の朝子さん、優樹さん、朋子さんの3人で今年の七夕を振り返りました。
Text : Yuki Baba
七夕を行うことは子どもたちにとってどんな意味があるのだろう?という問いが私の中にありました。また、6月、7月と、暑い日になってきて、子どもたちはほぼ毎日と言っていいほど園庭の水道を使って水遊びをしています。個人的には、水の使う量についてどうやって伝えたらいいのか、という問いもありました。蛇口をひねれば無尽蔵に真水が出てくると思えてしまいますが、実際は違います。地球の真水の希少さについて、子どもたちに言葉で伝えても、実感として知ることは難しい。自分自身も、実感として水の有限さを知っているかと問われれば、頭で理解しているだけです。
そのような時に、七夕の由来の中に、「朝露を集めて願いをかく」ということを知り、朝露を集める経験が水の希少さを感じる良い機会になるかもしれないと思いました。朝露を集める経験が、水の希少さへの感度を高め、その感度を高めることが、やまのこの保育目標である「地球に生きているという感受性」につながると思ったのです。
実際に、水集めを始めてみると、みんな、虫を探して捕まえるように、葉っぱの上の水滴を探し、「ないね〜」「あ、あった!」「ここにも!」と、一粒一粒瓶の中に集めていきました。繊細な手つきで、水滴がついている葉っぱを揺すって、瓶の中に落とそうとします。今までは見向きもしなかった葉っぱの上の水滴に一気に感度が高まり、水滴がたくさんついている草むらを見つけたときは「こんなにいっぱいある!」と嬉しそうにしています。葉の上の水滴を探すときの視点の鋭さと集める時の手つきの繊細さは、水遊びをする時の大胆さとは、とても対照的な姿で、私には印象的に思えました。
七夕当日、硯に墨をすり、筆を使って和紙に描いていく時には、子どもたちの探求する姿、表情がとても鮮やかでした。柊太郎くんは、一回目に墨をすり、その水を筆に含ませて、和紙に一滴垂らし、再び墨をすり、少し墨の濃くなった水を筆に含ませ和紙に垂らして、一回目、二回目の墨の濃淡の違いを見ている。さらに、一滴の水が紙の上で同心円状に広がり、「まんなかの方がこいねえ」と、中心部と縁の部分の濃さが違う様子を見ていました。墨や和紙の白黒の世界だからこそ、濃淡が印象的に見えたのかと思います。他にも、和紙が水でふやけ、破けるまで筆を紙に押し付けてみたり、筆を使わず、墨をそのまま持って紙に描いたり、みんな、それぞれの方法で墨、和紙を探求していました。
七夕が終わった次の日、散歩へ行く時にMちゃんが「あ、みてみて!葉っぱの上に水滴あるよ!」と、教えてくれました。水遊びをするときは、今でも、みんな大胆に水を使いますが、Mちゃんのその一言は水に対する感度が七夕を通して変わったかなと思える言葉でした。また、七夕から一ヶ月ほど経った頃にも、MMちゃんがたくさん水滴がついている草むらを見て「あ〜あ、今日が七夕だったら良かったのに!」と、言っていたようです。